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黒柄・半袖 - Black Design/Short


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黒柄・長袖 - Black Design/Long


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黒柄 - Black Design



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白柄・半袖 - White Design/Short


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白柄・長袖 - White Design/Long


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白柄 - White Design



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彩色柄・半袖 - Color Design/Short


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彩色柄・長袖 - Color Design/Long


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彩色柄 - Color Design











勝海舟と共に、世界に冠たる大日本帝国海軍の父とも称される重鎮、海軍大将にして海軍大臣、内閣総理大臣経験者・山本権兵衛閣下の、青年士官時代(おそらく1880年頃?)の凛々しいお姿をTシャツにしました。

山本権兵衛とは - コトバンク

海軍を創設したわけではないにも関わらず大日本帝国海軍の父と言われる理由は、海軍の近代化のために一切の私情を排し、諸制度の改革、人事の刷新を断行し、日露戦争・日本海海戦の勝利をお膳立てし支えたからであると言えます。

そんな「西郷隆盛と大久保利通の長所を兼ね備えた男」とも言われる山本権兵衛閣下の生涯を振り返ってみます。

維新前から俊英として知られ、大議論家(不言実行型、寡黙なリーダーが多い中で、山本はしゃべりすぎといわれるくらい弁が立ち、相手が上であろうが自説を主張して譲らなかったと言われます。)でもあった山本権兵衛は、10代で薩英戦争及び戊辰戦争に従軍。
戊辰戦争後、当時の政府高官であった西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所そして海軍兵学寮と海軍軍人への道を歩むことになります。
24歳のとき、他の海軍少尉補7名と共に、ドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」への乗り組みを命じられ、10ヶ月に及ぶ世界半周の航海に出ます。この間、山本はこの「ヴィネタ」の艦長グラフ・モンツから船の操縦や軍事技術に留まらず、政治、経済、法律、哲学など、さらには、服装、生活態度、礼儀、趣味まで、多岐にわたる多くを学んだそうです。
モンツはドイツの貴族出身で、高い教養と高潔な人格の持ち主であり、後に山本は「私の今日あるのは、まったくモンツ艦長の感化による」と述懐していたそうです。

また、山本は西郷、大久保らがうまれた薩摩の同じ町内の出身。
薩摩出身のほとんどの者がそうであるように、山本も西郷隆盛を尊敬し、彼に心酔していました。しかし山本はそれに留まらず、長じるに連れ、薩摩の双璧のもうひとり・大久保利通についても、伊藤博文の大久保評を聴くなどして、その威厳の奥に隠された公平無私の度量の深さに感銘を受けたそうです。
こうして西郷の徳、大久保の知性と胆力(度胸)、公平無私を一身に体現したような山本閣下の人格が形成されたのかも知れません。

そして38歳で、西郷隆盛の弟・海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に抜擢されると、「海軍の父」と呼ばれるようになる本格的な仕事を始めます。
まず日清戦争時に海軍大臣副官となると、山本は海上権という新しい概念を陸軍首脳へレクチャー。それ以後、日清戦争における陸海軍の作戦が比較的スムーズに進みます。 当時海軍軍令部は独立しておらず、陸軍参謀本部の中に含まれていたのです。山本は軍令部の独立を主張し、その独立までには10年の歳月が掛かりました。
その数年前、1年間欧米に渡り、各国の海軍制度を視察、欧米に比肩しうる精強な近代海軍を作らなければならないとの感を強く持つに至っていた山本。
日清戦争後には、三国干渉から将来のロシア帝国の脅威に対抗出来る海軍に改革するために、人事を含む大規模な行政改革を断行します。
特に将官8人、尉佐官89人に及ぶ士官のリストラには、現役の軍令部長の中牟田倉之助さえも対象となる世界の海軍でも例を見ない大リストラであり、山本と個人的に親しかった士官、薩摩出身者も容赦なく整理対象とされたため、個人的批判が巻き起こり、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも説明を求められます。
山本に全てを任せた西郷従道さえも、一時は疑問を呈したが、緊急の場合には、予備役を召集すれば良いとの説明に最終的には同意。すべて山本に任せて自分が責任を取るとして改革を進めさせました。
この人員整理案には、たとえ同郷出身の先輩でも、明治維新当時からの勲功を積んでいても、現在将官級の地位にあっても、あるいは自分と親交があっても、海軍の将来の計画に対して、淘汰しなければならないと認める者は淘汰する。また、自分に対して、たとえ悪口を言う者でも、将来国家にとって有用な人材と認める者は残すという、大久保卿譲りの明確な方針がありました。
山本はこの方針を厳格に守り抜いて、一切の異議申し立てを認めず、私情を殺し、将来予想されるロシアとの戦いに勝てる海軍を作ることを至上目的としたのです。

47歳になると、西郷従道の推薦により第二次山県有朋内閣の海軍大臣に就任。日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨しました。
山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行います。
士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣。士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出ます。
国内の製鉄所・造船所を整備し、戦時における修理・補給体制を充実。また当時の燃料としては最高級の英国炭を全艦船の燃料として採用します。
艦上での食事の改良にも力を注ぎカレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立を奨励し、乗組員の健康管理にまで目を配ります。当時の日本では脚気が問題でしたが、栄養価の高い食事や適度なパン食などで、乗組員の脚気はほぼ皆無になったと言います。
外交では日英同盟を積極的に支持。海軍条項を早期に同意するなど、外務省に協力しました。
さらに国内での艦船の新造を振興する一方で日英同盟に配慮して英国へ発注し、また戦後の好意を期待して米国にも発注するなど、広い視野をもって行動しました。
また日英同盟によって当時世界の主要港を支配していた英国を中立化し、ロシアのバルチック艦隊の日本海までの長期航海における補給・修理・休養を出来る限り妨害、日本海海戦前に疲労させます。
そして、官房主事時代から取り組んできた海軍軍令部の独立を達成し、明治天皇による初めての海軍軍服の着用、予算規模の拡大などによって、海軍を陸軍と対等の関係まで進めました。
また陸軍の大陸への兵站を守る海上権を先ず第一義に考え、日露戦争ではウラジオストク艦隊、次いで陸軍との協同作戦により旅順のロシア太平洋艦隊を全滅させ、船舶の通行の安全を図ります。
開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成します。

このように対ロシア戦を想定した海軍作りに辣腕をふるいますが、 開戦直前に最も大きな決断を下します。
常備艦隊(後の連合艦隊)の司令長官として東郷平八郎を任命したのです。
この人事はそれまでの慣例を破るものと批判されましたが、人事権は海軍大臣にあると断行。
後にこの人事は、陸軍の児玉源太郎の参謀次長就任と並ぶ二大傑作と称されました。
しかし、山本にとってこれは辛い苦渋の決断でした。それが、竹馬の友であり、海軍兵学寮に一緒に入り、親友と言ってもいい間柄であった現長官である日高壮之丞を解任することを意味したからに他なりません。しかし、ここでも彼は私情を捨てます。
日高は有能な海軍士官であることは認めていたが、自分の才気に溺れ、独断専行の傾向が見受けられました。対ロシア戦は、国運を賭けた戦争であり、その司令長官は上の方針に反する者であってはならなかったのです。
その点、東郷には不安はなく、合理的かつ冷静沈着な判断と行動、それにきわめて強運(明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っています。)。山本は東郷こそ司令長官に相応しいと判断しました。
山本から解任を通告された日高は、腰の短剣を抜いて、「権兵衛、何も言わん。これで俺を刺し殺してくれ」と言ったそうです。竹馬の友からの通告に、誇り高き軍人、日高の怒りと失望は察してあまりあるものであり、山本にも日高の心が痛いほどわかったことでしょう。彼は日高の性格が国家の大事に際して、不向きであること、東郷を選ばざるを得なかったことを諄々と説いて聞かせたそうです。そして最後に「二人は竹馬の友だし、少しも変わらぬ友情を今でも抱いている。しかし、国家の大事の前には、私情は切り捨てなければならないのだ」。日高も愛国者。目に涙を浮かべて、うなずきました。「権兵衛、よくわかった。よく言ってくれた」。山本も泣き、そして日高の手を両手で固く握ったといいます。
英雄、東郷平八郎の誕生の背後にはこうしたドラマがあったそうです。



山本権兵衛閣下についてもうひとつ、忘れてはいけないのはは妻・登喜子さんに対する姿勢です。
これは「ヴィネタ」艦長グラフ・モンツの影響か大きいと言われます。
ドイツの練習船「ヴィネタ」に乗る直前、海軍士官合宿所の向かいにあった女郎屋で、新潟の漁師の娘で、家が貧しくて、最近売られて来たばかりであった登喜子さんに一目ぼれをし、彼女を助け出して自分の妻とします。そして彼は妻に誓約書を渡します。
それには
一、夫婦は互いに礼儀を守ること。
一、夫婦睦まじく生涯互いに不和を生ぜさせぬこと。
一、夫婦たるの義務に破るにあらざれば、いかなる事実あるも決して離縁ゆるすべからず。
一、一夫一婦は国法の定る処なれば、誓ってこれに背かざること
と書かれていたそう。
当時まだまだ身分制度が残っており、海軍士官が士族の娘ではない、平民の娘と結婚することは異例のことで、周囲からの非難もあったらしいですが、それには耳を貸さず、山本はこの妻を誓約書のとおり生涯愛し続けました。
こんな逸話があるそうです。
結婚してしばらくして、登喜子さんが山本の乗る軍艦を見学に来ました。中尉であった山本は自分で艦内を案内。その帰り。軍艦からボートに乗り、そのボートから桟橋に移ろうとするとき、山本は妻の履き物を持って先に桟橋に渡り、妻の前にそれをそろえて置いたのです。
妻を軍艦に案内することが、まずあり得ない上、当時の日本でこんなことをする者はほとんどいなかった為、これを見ていた他の将兵たちは、山本を冷笑したといいます。
しかし、山本は意に介さず「敬妻は一家に秩序と平和をもたらす」と言ってはばからなかったそうです。これもモンツ艦長から学んだ西洋の美風であったのでしょう。

うーん、今回は今までよく存じ上げなかった山本権兵衛閣下の人柄にもしたしくなることができた気がして、大変勉強になりました。
いかにも南国薩摩隼人らしい精悍な面構えの権兵衛閣下…中身も飛び切りの男前ですね。

※こちらは、先日の ブログ でも書いたのですが、東京は御茶ノ水『レキシズルバー』に行ってみた際にリクエストをいただいて、制作しました!




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