長州藩士、政治家。幼名は利助、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名した。号は春畝で、春畝公と表記されることも多い。
また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人を称して落款としても用いた。
周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。
維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。
初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。
内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清國から朝鮮を独立させたことが特記できる。元老。
1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の韓国人安重根に暗殺された。(Wikipediaより)
伊藤博文 歴史人物Tシャツ040
