伊藤博文 幕末・明治 長州 歴史人物Tシャツ Historical Figures 040

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黒柄・半袖 – Black Design/Short

黒柄・長袖 – Black Design/Long

黒柄 – Black Design

松下村塾門下生として長州尊攘派の一角を占め、維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばして初代内閣総理大臣をはじめ要職を歴任、尚且つ大日本帝国憲法の起草の中心となって立憲主義・議会政治の父と称された、元老・伊藤博文のTシャツです。

伊藤博文とは – コトバンク

農民の出身でありながら、松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた政治センスで明治政府・憲法政治の大元首と言われるまでになった伊藤博文。
豊臣秀吉以来の出世頭かもしれません。

無類の女好きで当時から非常に有名だった伊藤ですが、政治家としては金銭に関する清廉さで知られ、穏健で思慮深くバランスに配慮する姿勢が伝わっています。

大日本帝国憲法を制定する際には、担当官に対し「新憲法を制定するに、伊藤は一法律学者であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示し、現在よりも特権意識の強い時代の政治家としては異例の見識を示したりもしています。

最期はその統治に心を砕いたはずの朝鮮人の手によって暗殺されてしまった伊藤博文。
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとりであり、医学を教え医学界の発展に尽くしたエルヴィン・フォン・ベルツ(滞日は29年に及ぶ)は、「朝鮮人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は朝鮮人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って朝鮮に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時、武断派及び東京の言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、朝鮮の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、朝鮮人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。欧州においては朝鮮保護について新統治の峻厳を批判する者は多い。これらの批評者は日本当局が学校を創設し、農業を改善し、鉄道を敷設し、道路を開設し、船舶や港湾を建造し、かつ日本人移民によって勤勉な農夫、熟練工たる模範を韓国民に示そうという苦心経営の事実をことごとく無視する者である。私は三度現地に赴き、実際の状況を目撃して感服した。(略) 東京で公より話を聞いた時も、公が朝鮮とその人民の幸福を推進するためにいかに尊敬すべき企画を持ち、いかに多大な功績をあげたかを明白に推知しえた。」と評しています。

幕末に活躍した主な志士たちからは人気の面では譲っているように思える春畝公ですが、もっともっと評価されて然るべき偉大な政治家だと思います。

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