小栗上野介忠順 幕末 幕臣 奉行 歴史人物Tシャツ Historical Figures 099

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黒柄 – Black Design

傑出した知力、実践力、交渉力、危機対応力を発揮して幕末の日本でいち早く近代化を推進、明治政府の近代化政策の礎となるも、無実の罪で処断された悲運の傑物、幕臣・小栗上野介忠順のTシャツです。

戊辰戦争勃発に際し薩長へ恭順論を唱えた勝海舟に対し主戦論を提唱したとして、勝のライバル的存在として語られることも多い小栗上野介。

勝海舟 幕末・明治 江戸 歴史人物Tシャツ Historical Figures 008

しかし、元々の家柄から存命中に残した功績の大きさまで、その事跡を知るにつけ勝海舟を遥かに凌駕しているとすら思えます。

近年、再評価が進んでいる維新前夜の徳川幕府を支えた幕臣改革派テクノクラート達。
その中では、相対的な知名度は高い人物ですが、まだまだ一般的な知名度は充分とはとても言えません。

家柄は、徳川家中でも最古参の譜代である、誇り高き安祥譜代の直参旗本。その第12代当主でした。
文武の才を買われ、若くして役につくと、異例とも言えるほど多くの役職を歴任。
率直な物言いを疎まれて幾度も役職を変えられるのですが、そのたびに才腕を惜しまれて役職に戻されており、中でもエリート中のエリートと言える勘定奉行に何と四度も任命されています。

そんな小栗が幕政に顕著な存在感を示すようになったのは万延・文久の頃から。ちょうど幕末の動乱期でした。

1860年1月、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した初の公式訪米使節団、万延元年遣米使節の目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米します。
(尚、勝の他、福澤諭吉らも便乗していた咸臨丸はこの中の随伴艦。)

福澤諭吉 幕末・明治 慶應義塾 歴史人物Tシャツ Historical Figures 077

この使節団の隠れた目的の一つが、大量の金が海外へ流出している事態を食い止めるための通貨交換比率の交渉でした。
これは日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたため。小栗はフィラデルフィアでこの交渉に挑み、小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明、比率の改定に繋がる道筋を示します。
この交渉の過程で、小栗はタフ・ネゴシエイターとして日本人の評価を上げたと言われ、多くのアメリカの新聞が絶賛の記事を掲載しています。
さらにニューヨークではブロードウェイでパレードが行われ50万人もの人が集まり、空前と言われる大歓迎を受けます。
当時のニューヨーク・タイムズが「市の歴史で最も目新しく華々しいイヴェントの一つ」と評しているなど、日本のPRに大いに成功しました。(ちなみに2010年6月には侍来米150年を記念した特別展示会がニューヨーク市立博物館で開かれたそうです)
地球を一周して同年9月帰国。

その後は、1867年10月の徳川慶喜による大政奉還を経て翌1868年1月鳥羽・伏見の戦いの後に知行所・上州権田村へ隠遁するまでのわずか6,7年間で、財政再建、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを立て続けに断行、その手腕を遺憾なく発揮しました。

徳川慶喜 幕末・明治 江戸 歴史人物Tシャツ Historical Figures 047

折角ですので、少し詳しくご紹介します。

訪米から帰国後の1862年には幕府の財政立て直しを指揮。
さらに、訪米時に訪れたワシントン海軍造船所に影響を受けた小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げました。(当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたそうですが、当時アメリカは南北戦争で国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため、結果的にロッシュとの繋がりができたフランス中心の招聘となったそうです。)

翌1863年、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けるものの、14代将軍徳川家茂はこれを承認、11月に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定されました。
1865年11月、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始。
相当な費用の負担を強いることから幕府内部の反対論は強く、建設地を横須賀にすることへの反対論もありましたが、工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄所は建設されます。多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速で、取りやめることが不可能であったからと言われています。
尚、この際、幕府財政を案じる栗本に向かって「いずれ売り出すとしても土蔵付き売家の栄誉が残る」、つまりたとえ幕府が倒れたとしても、横須賀造船所を残せば徳川の栄誉であると言ったエピソードが知られています。

この横須賀製鉄所の技師長としてフランスのレオンス・ヴェルニーが任命されました。
これは幕府公認の事業ではもちろん初の事例でしたが、この人事により職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入されました。
また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業も行いました。
(この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多数いるそうです。)

この横須賀製鉄所は司馬遼太郎によれば「日本近代工学の源泉」と言われています。

また、小栗は陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進。
1862年12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで韮山代官に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手。
武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用し、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入、滝野川反射炉の一角に設置して、日本初の西洋式火薬工場を建設しました。

更なる軍事力強化のため、今度は幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画。1867年、15名のフランス軍事顧問団が到着、訓練が開始されました。
(尚、この中のブリューネ砲兵大尉をはじめとする10名が、幕府瓦解後も伝習生と行動を共にして箱館まで渡り、土方歳三や大鳥圭介らと共に伝習大隊を率いて新政府軍と戦いました。トム・クルーズ主演の映画『ラストサムライ』のモデルとされます。)
またこの顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入しました。

土方歳三 幕末 新撰組 歴史人物Tシャツ002

経済面では、1866年には関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、日本全国の商品流通を掌握しようとしました。これが後の商社設立に繋がることとなります。翌1867年、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立しました。
これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるもので、100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものだったそうです。
ちなみに、一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされているとか。
さらには清水喜助らが建設した日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設を発案・主導しました。

鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜の江戸帰還後に江戸城で開かれた評定においては、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張。
この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案しました。
後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話が知られています。
実際、この時点において旧幕府側は、鳥羽伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していましたが、慶喜はこの作戦を退けて勝海舟の恭順論を採りました。

大村益次郎(村田蔵六) 幕末・明治 長州 歴史人物Tシャツ Historical Figures 076

慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、大義名分の無い戦いはしない、として知行所・上州権田村へ隠遁します。
しかし、1868年閏4月4日、新政府軍東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵により、抗戦の意思を示したとして、東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)にて、斬首。享年42。

・・・

このように様々な面で傑出した才を示し、相当なスピード感を持って改革を行った手腕は、やはり同時代人から見ても一流であったようです。
のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎からは幕府側から近代化政策を行った人として評価されました。

東郷平八郎 明治 帝國海軍 提督 軍神 歴史人物Tシャツ001

明治維新を「日本の夜明け」として描く司馬遼太郎でさえ、幕臣の小栗をして「明治の父」と記さざるを得ない業績であったと言えるでしょう。

私も、下記の記事を読み、原田伊織さんの『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』などの維新三部作を読んで改めてその存在の大きさを知りました。
従来の歴史の見方とはまた違った捉え方で見えてくる幕末。おすすめ致します。

明治政府が最も恐れた男・小栗上野介が罪なくして抹殺された理由【検証 「徳川近代」 原田伊織氏インタビュー 3】

そして、Tシャツを着てお洒落に小栗上野介の知名度アップを図りましょう。

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