モンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一したのち、中国・中央アジア・イランなどを次々に征服、最終的に当時の世界人口の半数以上を統治する人類史上最大規模の世界帝国・モンゴル帝国の基盤を築き上げた、ユーラシア大陸の征服者にして遊牧民の偉大な英雄、チンギス・カンのTシャツです。
日本語での名前の表記揺れについて
まず、日本語での名前表記については、チンギス・カン/チンギス・ハン/チンギス・ハーン/ジンギス・カン等複数の表記揺れがあるので、それについてざっと確認です。
「カン(ハン)」は、12世紀頃のモンゴル、ケレイト、ナイマンなどの部族の長が名乗った称号(君主号)。
この称号のモンゴル語の発音が、日本語の「カ」と「ハ」の間の発音であり、時代によって「カ」に近かったり「ハ」に近かったりするんだそうです。
現代モンゴル語ではハンと発音するので、少し前まではチンギス・ハンという表記が主流でしたが、チンギス・カン在世の13世紀ごろは、これがカに近かったことがわかったので、現在では当時の発音に則してチンギス・カンという表記で定着してきているのだそうです。
「カーン(ハーン)」については、チンギス・カンを継いでモンゴル帝国第2代君主となったオゴデイが、モンゴル帝国の最高君主として、他のカン(=部族長)たちとは格の異なった存在であることを示すため、古い時代の遊牧民の君主が名乗ったカガン(可汗)を復活させてカアンという称号を採用したことに始まります。(日本語の「カ」と「ハ」についてはこちらも「カン(ハン)」と同様。)
つまり、チンギス・カンは名乗っていない称号なのです。
しかし、現代のモンゴルで一般的なのは、宗教的・民族的・そして文化的にもチンギス・ハーン。カン(部族長)ではなく、世界帝国の偉大な建設者ハーン(皇帝)なんですね。
尚、かつてはジンギス・カンと書かれることが多かったのですが、これはティムール朝以降のペルシア語年代記などのアラビア文字表記から転訛した欧米の諸言語の発音に基づいたもの。
また、日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「成吉思汗」が一般的です。
本頁では即位まではテムジン、即位後はチンギス・カンで統一したいと思います。
生い立ち・少年~青年期
9世紀半ば、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家・回鶻(ウイグル)が解体した後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がったのがモンゴル部族でした。
11世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長しますが、そのモンゴル部族の有力家系・キヤト氏族のイェスゲイの長男として生まれたのが、テムジン、のちのチンギス・カンでした。
生年については1155年・1162年・1167年と諸説あり、はっきりとはわかっていません。
父・イェスゲイは、キヤト氏の中では傍系でしが、バアトル(勇者)の称号を持つ有力者であり、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリル(またはトオリル。のちのオン・カン)と同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで、一代で急速に勢力を拡大。
出身のキヤト氏族のみならず、タイチウト氏族を含めたモンゴル部族全体の有力者となった人物でした。
しかし、その父・イェスゲイが敵対するタタル部族に毒殺されたことで、テムジンの少年~青年期は苦難の連続を強いられました。
父の死後、その勢力は一挙に瓦解。もともと同じモンゴル部族ながらキヤト氏族とは対立関係にあったタイチウト氏族などの遊牧民たちはほとんど去っていき、苦しく貧しい状況の中で、少年期を過ごします。
テムジンが青年に成長してくると、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れたタイチウト氏の首長タルグタイ・キリルトクらに捕らえられてしまいます。
この時には、ソルカン・シラ(タイチウト氏に隷属していた、やはり同じモンゴル部族ながら弱小氏族であったスルドゥス氏の出身)が密かにテムジンを逃したのでした。
テムジンはソルカン・シラへの恩義を生涯において忘れることはなく、一族はのちのモンゴル帝国及びその後継国家において名家として尊重されました。
また、ある日、遊牧民にとって財産である馬のほとんどを盗まれてしまうという事件が発生。
奪回のため、追跡を開始した途中でテムジンはたまたま運命の出会いを果たします。
のちの四駿の一人、名実共にモンゴル帝国の筆頭部将に成長するボオルチュ少年との出会いでした。
彼はテムジンから事情を聞き、目撃していた盗賊の追跡と、そのアジトの強襲と劫掠を協力して行いました。
少年とは思えないその義侠、不敵、智勇に感銘をうけたテムジンは、最初の部下として、親友として以後行動を共にします。
成人、キヤト氏族再興
様々な苦難を乗り越えて成人したテムジンは、幼少期の許嫁でもあったボルテと結婚。キヤト氏族の民もテムジンの元に戻り、弱小ながら再興を果たします。
しかし、今度はトクトア・ベキ率いるメルキト部族の軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテを略奪されてしまいます。メルキト部族はトクトア・ベキの父の代にはモンゴル高原の殆どを支配下に置いたほどで、強大な部族でした。
テムジンは、かつて父の同盟者でもあったケレイト部族のトグリル・カンの仲介によって妻を取り戻しました。
そして、トグリル・カンやモンゴル部族ジャジラト氏族の首長ジャムカらを同盟者にして勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部族の中で一目置かれる有力者となっていきました。
テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになったのです。
すると、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏族のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになりました。
テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大していきますが、それとともにライバル・ジャムカとの関係は冷え込んでいきました。
モンゴル高原統一
ジャムカの一族の者がテムジン配下の遊牧民の家畜を密かに略奪しようとして逆に殺害されるという事件が起きたのを切っ掛けに、テムジンとジャムカは完全に決裂。
ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で会戦に至ります。
世に”十三翼の戦い”と呼ばれるこの戦いの後、ジャムカは捕虜としたテムジン側の将兵70人を釜茹でという残酷な方法で処刑。これによってジャムカとタイチウト氏に対して不満を持ち失望した氏族の首長たちは、続々とテムジンの陣営に投じました。
さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部族内で内紛が起こり、トグリル・カンが王位を追われ、わずかな供回りとともに放浪したのち、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきます。
テムジンとトグリルの両者は、ここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトグリルはケレイトの王位に復帰。
さらに両者は、中国・華北を支配していた女真族の王朝・金と、モンゴル高原東部の有力部族でテムジンにとっては仇敵であったタタル部族との関係悪化を利用して、大国・金朝との同盟関係構築。
ウルジャ河の戦いにおいて金朝・ケレイト・テムジン連合軍としてタタル部族を討ち、弱体化に成功します。
余談ですがこの5-60年くらい前に南側でこの金と戦っていたのが南宋の名将・岳飛ですね
テムジンは、同年やはりケレイト部族とともにキヤト氏族の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏族の武力統一に成功。
翌1197年には高原北方のメルキト部族に遠征し、1199年にはケレイト部族と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマン部族を征伐。
さらに1200年、やはりケレイト部族と共同で、モンゴル部内の宿敵・タイチウト氏とジャムカのジャジラト氏を破り、続いて大興安嶺方面のタタル部族を打ち破り、急速に勢力を拡大していきます。
1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵・ジャムカを盟主に推戴。
しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させることに成功します。
1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかりますが、ケレイト・テムジン連合軍は苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、トグリルが飽くまでテムジンを義子として扱うことに不満を持つその長男、イルカ・セングンがテムジンと対立。
翌1203年、トグリルは、セングン(とその背後暗躍するジャムカ)の讒言に乗って突如テムジンの本営を襲います。
テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖において名高い「バルジュナ湖の誓い」ののちに体勢を立て直すと、同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ります。
そしてオン・カンの本営を急襲して大勝。この敗戦により、高原最大の勢力であったケレイト部族は壊滅し、高原の中央部はテムジンの支配下となります。
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕えて処刑。
やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部族の支配下に入ったのでした。
モンゴル帝国創建
1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイ(中世から近世にかけてモンゴルの最高意志決定機関として開催された会議)を開き、諸部族全体の統治者に即位してモンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)を開きました。
チンギス・カンという名はこのときに奉られた尊称ですが、「チンギス」という語彙の由来については諸説あり、確実なことは分かっていないそうです。
チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成。
最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成されました。
また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命されました。
戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められました。
また、各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3-4頭の馬がいるため、常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていたのだそうです。
これがモンゴル軍の爆発的な行動力を支えていたとみられているそうです。
この千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命され、統括の任を委ねられました。
このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封しました。
チンギスの築き上げたモンゴル帝国のこの左右対称の軍政一致構造が、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けることになったのだそうです。
征服事業
vs 西夏
クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていました。
堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立しましたが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていました。
さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功しています。
vs 金
着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年に金と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍。金の軍隊を破って北中国を荒らします。
この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めるものの、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗します。
しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習、徐々に攻城戦術を身に付けていきました。
この経験により、彼らはやがて戦史上で最も活躍し成功した都市征服者となっていきます。
こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合。
翌1214年、チンギスは金と和約を結んでいったん軍を引きますが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め、再び金を攻撃。
1215年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現・北京)を包囲、陥落させました。燕京を落としたチンギスは、将軍ムカリを残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げました。
vs 西遼(ナイマン部族残党)
このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いでいたクチュルクは、チンギスに敗れたのち西走して西遼に保護されていました。
のみならずクチュルクはそこで勢力を広げ、西遼最後の君主・耶律直魯古から王位を簒奪。
かつての宿敵であったナイマン部族残党が西遼の王位に就いていることを見過ごさず、チンギスは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込みます。
クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂、ジェベはクチュルクを大いに打ち破りました。
カシュガルの西で敗れ、敗走したクチュルクはやがてモンゴルに捕えられ処刑され、西遼の旧領はモンゴルに併合されました。
この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大。
南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなります。
vs ホラズム・シャー朝
1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣しますが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺。
その報復としてチンギスは末弟テムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達します。
モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服。
モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊されていきました。
そして、ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊。
ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはいわゆる「四狗」の内のふたり、ジェベとスブタイを追討に派遣します。
彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で病死しますが、ジェベとスブタイはそれを知らずにそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達しました。
彼らの軍は、1223年に遠征を終えるまでにキプチャクやルーシ諸公など立ちはだかる諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられました。
特にルーシ諸侯・キプチャク連合軍と戦い、大勝を収めたカルカ河畔の戦いは、モンゴルとヨーロッパ世界の間に起きた最初の軍事的接触となりました。
一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタン・ホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーン・メングベルディーを追い、南下を開始。
モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、メルブ(その後二度と復興しなかった百万都市)、バーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺していきます。
アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられることも多くありました。
特に、ジャラールッディーンが所領のガズニーから反撃に出た直後、大断事官シギ・クトク(チンギスの母ホエルンに養子として育てられた人物)率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたパルワーンの戦いは、チンギス・カンの西征においてモンゴル軍が唯一敗れた戦いでした。
また、バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子モエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹トムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていました。
チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破しますが、ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去ります。
寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路につきました。
チンギスは中央アジアの北方でジェベ・スブタイの別働隊と合流、1225年になってようやく帰国しました。
最後の遠征
西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチに南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えました。
末子トルイにはその時点では何も与えられませんでしたが、末子相続によりチンギスの死後に本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていました。
しかし、位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたと言われています。
これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していましたが、その上さらにチンギスがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を締結。
遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意します。1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかったのでした。
1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲。
西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ちましたが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅しました。
翌1227年、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西・河南の金領を侵させました。
自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進みました。南宋との国境、すなわち四川方面に向かったと言われています。
同年夏、チンギスは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れましたが、金から申し込まれた和平は拒否しました。
ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥ります。
モンゴル軍本隊はモンゴルへの帰途に就いたものの、1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去。
モンゴル高原の起輦谷へ葬られ、これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝たちはこの起輦谷へ葬られたそうです。
彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したといいます。
チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その死後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎が残されました。
補足
有名な家臣について。
「四狗」と呼ばれる重臣は、ジェルメ、ジェベ、スブタイ、クビライの4人。戦において先鋒や遠征軍の指揮官として用いられた猛将たちです。
「四駿」と呼ばれる重臣は、ボオルチュ、ムカリ、チラウン、ボロクルの4人。側近や高位の将軍としてチンギスの補佐を行った名臣たちです。
また、モンゴル人の祖とされる伝説上の獣・蒼き狼ですが、ここで言う「蒼色」とは「灰白色」を意味する単語で、正確には「白っぽい地に交わった暗灰色の斑の毛色」を意味するんだそうです。
青いオオカミじゃないんですね。
尚、前半生が不明瞭なため、日本ではチンギスの正体を源義経とする「義経=ジンギスカン」という荒唐無稽な俗説が知られています。
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