崇徳上皇と菅原道真と共に「日本三大怨霊」の一と数えられる、平安中期の関東の豪族で第50代桓武天皇の5世孫、武士の先駆者「兵」の頭領、義侠心に溢れた世に受け入れられない者の代弁者、新皇・平将門公のTシャツです。
平安京への遷都や、坂上田村麻呂を抜擢するなどして行った蝦夷征討で有名な桓武天皇の五世孫。
祖父の高望王が平姓を賜って臣籍降下し、平高望となって坂東へ下向して桓武平氏の祖となりましたが、その三男が将門の父・良将でした。
将門は、母の出身地である下総国相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされています。
父・良将の存命中は、所領の下総国佐倉で領国経営を行う父に代わり、在京活動を行っていました。
15-16歳のころには平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平に仕えながら朝廷に中級官人として出仕していました。
忠平には人柄を認められていたといいます。
良将が没すると、父の旧領を引き継ぐべく、下総国へ下向。
一説には、既に父の所領の多くが伯父の平国香や良兼、叔父の良正らに独断で分割されてしまっていたとされます。
それが将門を含めた桓武平氏一族をはじめとした、関東の豪族たちの所領をめぐる抗争に繋がっていったとされます。
VS 源護・平国香
将門が関わった抗争の手始めは、前常陸大掾・源護と、領地を接していた常陸国新治郡の土豪であった平真樹との土地を巡る確執・抗争でした。
この調停を、平真樹が将門に依頼したのでした。
源護は、一般的には一字名から嵯峨源氏と推測されており、常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持ち、真壁を本拠にしていたと伝わる豪族です。
将門の伯父の平国香や良兼、叔父の良正らはこの源護の娘を娶っており、姻戚関係であったため護の味方でした。
これに対し、将門は、平真樹からの依頼を受け、真樹を援護する側で紛争を調停すべく常陸に向かいます。
この時、承平5年(935年)2月、平将門の乱の中の最初の合戦が発生しました。
源護の子の扶・隆・繁が常陸国真壁郡野本(筑西市)にて将門勢を襲撃したのでした。
しかし、将門はこれを返り討ちにし、扶・隆・繁は敗死。
将門はそのまま大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して焼き討ちにし、その際に伯父の国香をも焼死させてしまいました。
VS 平良正
国香の死後、父・高望以来の上総介を次ぎ一族の長となったもうひとりの伯父・良兼は、静観・不介入の姿勢をとります。
しかし、叔父の良正は甥の将門ではなく外縁の源氏に真っ先に加勢、将門を討つ為に兵を集め戦の準備を始めます。
この良正の行動により、争いが益々激化することになります。
同年10月、良正は将門追討の兵をあげ、それを察知した将門もすぐさま出陣、21日鬼怒川沿いの常陸国新治郡川曲村(八千代町)にて戦闘となります。
双方激しく戦った末、良正勢は将門に撃破され、良正は敗走。将門は翌日本拠の下総国豊田(現:茨城県常総市豊田)に引き上げました。
VS 平良兼・平貞盛
敗走した良正は、良兼に救いを求めます。
一時は静観していた良兼は、将門の伯父であるだけでなく岳父であり(娘が将門の室)、いわば親権者でもある人物でしたが、かねてから将門とは不仲でした。
良正の求めを受け、将門との対立の中心に立つようになります。
まず、父・国香を死に追い込んだ将門との和平路線を取る甥の貞盛を批判・説得して味方に引き入れて軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち下野国を目指し出陣します。
これに対し、将門勢は下野国境において良兼・良正・貞盛勢を奇襲、数の上では圧倒的に勝る敵軍を打ち破り、下野国府へ退却せしめます。
将門は下野国国府を包囲しますが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国しました。
この頃、先に将門に敗れた源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出、将門らは京に赴いて検非違使庁で訊問を受けることになります。
しかし、翌承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦されて5月には帰国します。
帰国後も、将門と、良兼を初めとする一族の大半との対立は続きました。
同年8月6日、良兼は将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、今度は将門が敗走。常羽御厩を焼き討ちしました。
すぐさま兵を再編した将門も反撃しますが、再び退けられてしまいます。
その後も将門と良兼の争いが続くなか、11月5日将門の訴えに応えた朝廷により武蔵・安房・上総・常陸・下野などの国々に良兼らの追捕の官符が下ります。
これにより将門と良兼は公的に立場が逆転。
将門は力を得て勢い付き、良兼らの兵を筑波山に駆逐。これ以降、良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月には良兼は病死しました。
この結果、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響くこととなります。
武蔵国の紛争を調停
ちょうどこの頃、武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王(おきよおう/出自不明の人物ですが、皇族のひとりと思われます)と武蔵介・源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司で武蔵国衙の判官代であった武蔵武芝との紛争に陥っていました。
赴任早々、検注(土地調査ではあるものの、国司がその任地の有力者から受け取る莫大な貢物・賄賂が目当である事が多く、興世王らも正任の国司が赴任する前に自らの赴任直後に行っている事を見ても、それが目的であったと思われます)の実施と称して足立郡内に進入した興世王・源経基と、武蔵では正官の国司赴任以前には検注が行われない慣例になっていると拒否した武蔵武芝が対立。
興世王・経基は兵を繰り出し、郡家を襲撃して略奪を行いました。
武芝は山野に逃走、幾度となく文書で私財の返還を求めますが、興世王らは応じないどころかさらなる合戦の準備をして威嚇までしてみせました。
そこで武芝が調停を依頼したのが、平将門でした。
私兵を率いて武芝の許を訪れた平将門は、妻子を連れ軍備を整えて比企郡狭服山へ立て篭もっていた興世王と武芝を会見させて和解させます。
しかし、その酒宴の最中、和議に応じなかった経基の営所が武芝の兵に囲まれるという事態が起こり、生命の危険を感じた経基は慌てて京へ逃げ帰ってしまいました。
そして、経基は興世王と武芝と将門が共謀して謀反を謀っていると朝廷に訴え、時の太政大臣・藤原忠平は事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送りました。
そこで、将門らは自らの上申書に常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送ると、忠平が将門の主人であったというコネクションも有利に働いたのか、朝廷は疑いを解き、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されることになります。
(なお、武蔵国の正任国司・百済王貞連が赴任すると、これと不仲であった権守・興世王は国庁の会議に全く列席できなくなり、任地を離れて下総の将門のもとに身を寄せるようになります。
そして、将門の側近、宰人(ブレーン)とも称されるようになっていきます)
この時期、朝廷ではむしろ、坂東における将門の名声を承認し、その功績を評価することなども審議されており、将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられています。
平将門の乱
義理人情に篤く懐が深い将門。その威勢と名声、義侠心を利用しようと近づいてくる者も現れると言うことでしょうか。
今度は、常陸の豪族・藤原玄明(はるあき)と常陸介・藤原維幾(これちよ)の対立が、将門の下に飛び火してきます。
藤原玄明は、常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点として農地を経営していたと見られ、領地の収穫物を思うまま横領し、国府には租税を一切納めず抵抗していたといわれる評判のよくない人物だったようです。
維幾は太政官符の指示に従い、玄明らを逮捕しようとしましたが、玄明は妻子を連れて下総国豊田郡へ逃げ、平将門に庇護を求めたのでした。
しかも、その道中に常陸の行方・河内両郡の不動倉(いわゆる非常用備蓄)を襲撃、略奪しまでしていました。
玄明に助力した将門は、維幾による玄明らの身柄引き渡し要求を、「既に逃亡した」と玄明を匿って拒否。
さらに玄明を支援すべく私兵を集めて常陸国府に出兵して玄明の追捕撤回を求めました。
これに対し、常陸国府も武装を固めて要求を拒否、ついに両者合戦となります。
将門はこの時も手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介・藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は陥落し将門勢が占領、国司は捕縛され、将門は印綬を没収しました。
補足ですが、この常陸国府を攻撃・占領した事件について、将門が藤原忠平へ送った書状によると、
「維幾の子為憲(ためのり)が公の威光をかさに着て玄明を圧迫しており、玄明の愁訴によって事情を確かめに常陸国府に出向いたところ、為憲は平貞盛と結託して兵を集めて挑んでまいりましたので、これを撃破したのでございます」
とあり、この事件は、平将門が藤原玄明を助けようとした事よりも、将門と対立関係にあった従兄弟の平貞盛の画策であった可能性があるともされているそうです。
ともかく、この常陸国府攻撃・占領事件で、それまで国府への攻撃を慎重に避けつつ、戦いを「私戦」の枠内に留めてきた将門としては不本意ながらも、その域を超えてしまい、将門はついに朝廷に対して反旗を翻す「反乱」の当事者=国家的な追討の対象となってしまいました。
そして、将門は、側近となっていた興世王の「一国でも占領してしまえば罪は軽くない。ならば、関東一円を占領して様子を見てはどうか」との煽りにそそのかされ、これに乗ってしまいます。
すぐに下野に出兵し、事前にこれを察知した守・藤原弘雅や大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出しましたが、将門は彼らを国外に放逐。
続いて上野に出兵、迎撃に出た介・藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。同時期に西国で乱を起こしていた藤原純友の叔父にあたる人物)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、指揮官を失った上野国府を落とします。
ここで将門は、八幡大菩薩の使者と称する巫女の宣託があったとして、舎弟・平将平や小姓・伊和員経らの反対を退け「新皇」を僭称、側近の興世王、藤原玄茂(玄明と同族か)と共に独自に除目を発令し、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置きました。
将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、関東一円を手中に収めることに成功します。
乱の行方
将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられます。
そして、翌天慶3年(940年)1月、参議・藤原忠文が征東大将軍に任じられすぐさ追討軍が京を出立、源経基も以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、副将の一人として反乱の平定に向かいます。
一方、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣、平貞盛と維幾の子・為憲の行方を捜索。
しかし10日間に及ぶ捜索も貞盛らの行方は杳として知れず、将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させました。
この、足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言えそうです。
貞盛は、母方の叔父にあたる下野国押領使の藤原秀郷の協力を得て4000余の兵を集めていました。
藤原秀郷。近江三上山の百足退治の伝説や、”俵藤太”の名乗りで有名な豪傑です。
将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させた直後であり、手許には1000人足らずしか残っていませんでした。しかし、この報告を聞くと、時を移しては不利になると考えて手勢を率いて出撃します。
副将・藤原玄茂率いる将門軍の先鋒は、玄茂配下で一人当千とも言われた多治経明と坂上遂高ら。
彼らは貞盛・秀郷軍を発見しますが、血気に逸って将門に報告もせずに攻撃を開始してしまいます。
武勇を誇る多治経明らでしたが、相手は”俵藤太”。老練な軍略に長じた秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走してしまいました。
貞盛・秀郷軍はこれを追撃、下総国川口にて将門の本隊と合戦となります。
ここでは将門自ら陣頭に立って奮戦したために貞盛・秀郷らもたじろぎますが、時が経つにつれ将門軍は数に勝る官軍に押され、ついには退却を余儀なくされてしまいました。
貞盛・秀郷らは、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲(維幾の子)も加わり、将門の本拠・石井に攻め寄せ火を放ちました。
対する将門は、兵を召集しますが、先の手痛い敗戦後は形勢が悪く兵が集まりません。
僅か手勢400の寡兵を率いて幸島郡の北山を背に陣をしき、決戦を挑みます。
開戦当初は南風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てました。
貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまいます。
しかし、勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり北風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じます。
将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦しますが、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死しました。
伝説
その首は平安京へ運ばれ、さらし首となりました。
この将門のさらし首は、関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいいます。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承があり、最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚です。
この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めております。
中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなりました。
そして神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行ったことから、江戸時代には江戸幕府により江戸総鎮守として重視され、信仰を集めました。
明治時代に再び朝敵・逆賊という評価がなされますが、戦後再び復権。
関東一円では特に、武芸に優れているばかりでなく、その壮絶で悲劇的な死や世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、長く逸話や伝説として人々に語り継がれてきた、日本史上のヒーローのひとりです。
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