黒柄・半袖 – Black Design/Short ②(オーガニックコットン)
父は高橋紹運・養父は立花道雪・妻は立花誾千代という戦国のサラブレッド、関ヶ原の戦いで改易後に旧領回復を果たした唯一の男、数々の戦場で勇名を馳せ西國一の猛将と謳われた立花左近将監宗茂公のTシャツです。
豊後大友家の重臣、義将・高橋紹運のDNAを受け継ぎ、名将・「鬼道雪」こと立花道雪の英才教育を受けて育った、「剛勇」と「忠義」を超ハイレベルで併せ持った武士の鑑のような存在ですね。
主家・大友家衰退の中、秀吉の九州征伐にかけて精強な島津勢を相手に数々の武功を挙げて、「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」と絶賛された秀吉直臣にとりたてられます。
つづく文禄の役及び慶長の役でも、朝鮮へと出兵し、寡兵を率いて明・朝鮮の大軍を幾度も打ち破り、小早川隆景をして「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と言わしめ、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領するほどの戦いぶりを見せます。
厚遇を受けた秀吉への恩義から西軍として参加した関ヶ原では、本戦に間に合わないながら大津城を攻め落とす等活躍。
「もし宗茂が関ヶ原本戦に布陣していれば、西軍が勝っていたのではないか?」といった「もしも…」を想像させる武将でもあります。
関ヶ原の戦後処理において改易処分された後、江戸にて蟄居生活を送りますが、この人の凄いところは、戦に滅法強いだけにとどまらず、義理堅く正直な人物で常に温厚で誠実に人に接し「武士の中の武士」と呼ばれたその人柄を併せ持っているところ。
武士の鑑の様な存在である立花宗茂は、徳川家康と徳川秀忠の御伽衆にとりたてられ、以降は徳川家に忠実に仕え、ついに九州からは遠く離れた地とは言え、陸奥棚倉1万石に取り立てられます。
さらに大坂夏の陣で2代将軍・徳川秀忠麾下の軍師として活躍、その功が認められ、柳川の大名に復活!
関ヶ原の戦いで西軍について改易され、旧領の領主に復帰したのは立花宗茂のみ。
戦国武将としては世代が若かったため、伊達政宗や加藤嘉明・丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たし、晩年は秀忠・家光に近侍して将軍家の能、狂言、茶会の席や諸大名の屋敷が完成した際の披露会、上洛、大坂行き、日光社参などに随伴しているなど重用されたようです。
この頃は江戸に屋敷を構えて暮らしていたようですが、島原の乱が起きると72歳ながら老骨に鞭打ち柳川勢を率いて参陣。
総大将の松平信綱を輔佐し、有馬城攻城時にはなんと一番乗りを果たして昔日の勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞されたそうです。
林修の今でしょ!講座 2016年12月27日 161227 大河ドラマの主人公にしたい本当にすごい武将 三番勝負!
こちらで本郷和人先生が立花宗茂について熱弁をふるっております!
https://www.youtube.com/watch?v=i90znhbrtcw
BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)さんの記事もどうぞ!
https://bushoojapan.com/tomorrow/2019/01/26/35499
ちなみに余談ですが、下記のように姓名ともに幾度も変えています。「立花宗茂」となったのは、慶長15年(1610年)頃とのことなので、40代半ば頃ですね。
吉弘千熊丸→高橋彌七郎(幼名)→高橋統虎→戸次統虎→立花鎮虎→宗虎→正成→親成→尚政→政高→俊正→経正→信正→宗茂→立斎(号)
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