土佐に割拠した国人勢力から、剽悍な一領具足を動員し一代で四国統一を果たした傑物、「鬼若子」「土佐の出来人」などと謳われた長宗我部元親公のTシャツです。
土佐七雄と呼ばれる土佐に割拠した国人勢力のひとつ、長宗我部家の第20代国親の嫡男。
幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、「姫若子」と揶揄されて周囲を心配させていました。
そのせいもあってか数え年23歳という遅い初陣でしたが、その長浜の戦いでは自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せ、この一戦で元親の武名は高まり、それ以後は逆に『鬼若子』と恐れられるようになりました。
そんな折、土佐統一に心血を注いだ父が急死すると、家督を相続。
父が考案した一領具足という剽悍な半農半兵の戦闘集団を率い、父の遺志を継いで積極的な領地拡大政策を行っていきます。
土佐七雄のほぼ全てを滅亡もしくは降伏に追いやると、応仁の乱以来土佐に君臨してきた公家大名・一条家を攻め、当主兼定を追放。
そして天正3年(1575年)には再起を図った兼定を再度敗って、父の悲願であった土佐の完全統一を果たしました。
土佐を統一した後、天正5年(1577年)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという逸話があります。
住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説きましたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えたとか。
(今回添えた言葉はこちらが由来です。)
土佐の平定後は、織田家の重臣・明智光秀光秀配下の家老・斎藤利三の娘を正室としている縁を頼りに中央の織田家と結び、讃岐や阿波、伊予への侵攻を行って行きます。
十河存保等、三好家はじめとする各大名家や豪族の頑強な抵抗を受けながらも、徐々に勢力を拡大。
しかし、天下布武を押し進める織田信長は元親による四国統一をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫ります。しかし、元親は信長の要求を拒絶。
信長は、織田信孝と丹羽長秀による四国遠征を準備しますが、その計画実行直前に本能寺の変が起こり元親は危機を脱しました。
(変の直前に利三と元親のやり取りの書状が残っており、光秀の本能寺の変の理由が四国遠征を阻止するためだったとも、あるいは変の黒幕が元親という説もあります。
平成26年(2014年)、石谷家文書(林原美術館蔵)の中から元親から利三に宛てた書状が発見されて再び脚光を浴びました。)
そして、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結んで豊臣秀吉と敵対しながら、この近畿の政治空白に乗じて再び四国内で順調に領土を拡大、1585年には遂に四国を統一。
土佐の一豪族に過ぎなかった長宗我部家を、一代で四国の覇者にまで押し上げました。
しかし、同じ頃中央での争いに勝利した秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出します。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしますが、秀吉はこれを許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える四国征伐軍を編成、宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に差し向けます。
元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦しますが、三方向から同時侵攻されて敗北が続き、反戦派の家臣・谷忠澄の言を容れて降伏。結局土佐一国のみを安堵されました。
元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓います。
秀吉による九州征伐では、四国勢として嫡男・信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しみつつ高橋紹運やその子・19歳の立花宗茂らの踏ん張りで持ちこたえていた大友氏の救援に向かいます。
しかし功を焦る軍監仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって戸次川の戦いに大敗し、信親が討死してしまいました。
元親は信親の死を知って自害しようとしたそうですが、家臣の諌めで伊予国の日振島に落ち延びたと言います。
将来を期待された嫡男の死は大きな影響を及ぼし、その後の長宗我部家衰退の原因となってしまいました。
その後は、小田原征伐で長宗我部水軍を率いて参加、後北条氏の下田城を攻め、さらに小田原城包囲にも参加していますし、
二度の朝鮮出兵でも、四国衆として自身の後継者盛親や親忠、精選された士卒と供に参陣。
諸大名の水軍と共に、まるで初陣の如く敵船に切り込むなど奮戦し、朝鮮水軍を激戦の末に撃退した活躍等が伝わっています。
しかし、四男の盛親を偏愛するようになり、盛親の家督相続に反対する家臣や一族を粛清したり、三男・津野親忠を幽閉するなど往時からは想像できない偏狭な振る舞いも散見される晩年でした。
信親が死んで変貌する前までの元親には、家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量や情け深さがあったと言われます。
家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えた、
讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈る麦薙戦術を行ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、一畦おきに刈取らせた、
などのエピソードからもその一端がうかがえます。
『元親記』では「律儀第一の人」「慇懃の人」と評され、その他の軍記物でも武勇に優れ仁慈に厚い名君とされています。
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